ヒト・コト・ミライが交差する
リアルプレイス │ エイチ

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produced by amana

REPORT

質量、揺らぎ、感触――“エモい”写真が映し出すもの

メディアアーティストをはじめ、大学教授、経営者、執筆家など多様なフィールドで活動する落合陽一さんと、25歳で講談社出版文化賞写真賞を受賞し、いま最も注目を集める写真家の奥山由之さん。今回は、落合さんの展示『質量への憧憬 ~前計算機自然のパースペクティブ~』会期中に行われたトークセッション第3弾。おふたりにミレニアル世代の間で流行っている写真の“エモさ”や次世代のクリエイティブについて伺いました。


柔らかい黒と、質量の関係性

タジリケイスケ(「H」編集長/以下、タジリ):ここ数年、写真に対して“エモい”という言葉をよく聞きますが、主に80年代、90年代のアナログ感がリバイバル的に再流行して感性を刺激しているものです。今回は、落合陽一さんが最も注目を集める写真家の奥山由之さんと一緒に、「時代が求めるエモさ」や「クリエイティビティがどこから生まれてくるのか」について、語っていただきたいと思います。

奥山由之(以下、奥山):まず、この展覧会で落合さんの写真を見た感想は「黒」という色が印象的だなって思ったんです。

写真家の奥山由之さん

落合陽一(以下、落合):めっちゃ黒いよね。僕は同じ黒でも柔らかい黒いが好きで。冷たい闇ではなくてほんのりする闇って落ち着くじゃないですか。井戸の底を覗いているときは怖い感じがするんですけど、夕焼けの逆光で映る暗い像はどこか暖かそうな気がする。

メディアアーティストの落合陽一さん

奥山:その黒を意識しながら見ていくと、朽ちていく植物や錆びた看板が頻出していて、「退廃」という要素に意識が持っていかれるんですけど、多分その退廃を撮っていると同時に、それ以前に生命が宿っていたときのことを見据えているんだと思いました。命あったものがいま退廃している「時間の奥行き」という意味で、「質量」を感じているのかなって。

Photo by 落合陽一

落合:そうです。時間と空間の広がりで写真を選びました。

奥山:今回展示された植物の写真も生命力が失われていく過程のものが多いですよね。

落合:そうですね、僕は植物にはコンピュータ的な愛着があるんです。植物を見ていると太陽電池に思えてくるんですよ。光合成する機械である植物が自然に生えてきて、人間がつくるメカの周りにはびこっている。ということは、朽ちていく人間世界をいつか植物が凌駕するんじゃないか、とか想像してしまいます。

僕は、みなさんが植物に感じる「ネイチャー」のイメージはなくて、木の枝から切り離された花や葉を錆びた鉄骨のように感じているんです。錆びていく鉄骨と朽ちていく花の様子を似たものに感じるというか。そう考えると、人工物と枯葉の違い、無機物と有機物の違いもあまりないんですよね。

Photo by 落合陽一

落合:植物を見るときは、「なんでこんなに均整のとれた形をしているんだろう」とか、「なんでこんなに光を受け止める構造ができているんだろう」、「太陽の方向に伸びるなんて、なんてプログラマブルなんだ」というように、すごく人工的なものに感じています(笑)。

あと温泉が好きでよく入るんですが「ケイ素に浸かっている」って思っているんです。シリコン容器にケイ素の液体がいっぱい入っていて、そこに浸かっているから、地球っていう大きいコンピュータから出てきた液体が体を満たしているっていう気分で(笑)。

奥山:それは喜びなんですか?(笑)

落合:喜びですね。だから、地球への感謝の気持ちを込めながら水面の写真を撮るんです。楽しくてのぼせることもあるんですけど、あまり気にしなくて。むしろライカ片手に風呂に入っているっていう絵面におもしろみを感じていたりしています。

奥山:そういった感覚で写真を撮るんですね。

落合:例えば海岸の電柱なんか見ると、電柱が地球に浸かっているように見えるんですよ。奥山君は見た景色から何か考えたりしますか?

Photo by 落合陽一

奥山:例えば、新しくオープンした巨大商業施設に行ったりすると、「100年後、この建物はどうなっているんだろう?」と海に沈んだタイタニック号のように朽ちて閑散とした情景を想像したりします。落合さんの写真とは全く逆で、生命力を目の当たりにしながら退廃の景色を想像して奥行きを感じ取るということですね。あのときに湧き上がる、胸を締めつけられるような興奮はいったいなんなんでしょうね。

 

写真から匂ってくる世界観とは

落合:僕は京都とか秋葉原、つくばによくいるんですけど、特に京都は解像度が異常に高い街だと思っています。例えば、ドンキホーテの看板は解像感が低くても認知できるじゃないですか。一方で京都は織物や彫物や染物、光沢感のある焼き物や金属感がある茶器といった、解像度を高くして見ないと見落とすものが多い。そこの気持ち良さが好きなんです。

奥山:京都は街全体のニュアンスに非常に強い個性があるので、引きで見ると解像度が高くなくても認識できますが、ディテールに関してはどこまでも細かい。解像度を上げないと識別できない微差の違いに美意識を宿していますよね。

落合:例えば、道が広くて碁盤の目で分かりやすいこととかね。でも京都って裏道に入ったら普通に工業地帯だよね。

奥山:そうですよね。僕は、先ほど落合さんがギャラリーツアーでおっしゃっていた「夕焼けはどの国でも同じだ」という話にすごく共感しています。落合さんにとって夕日はエモーショナル過ぎて、街が放つ個性も消してしまうという意味合いが潜んでいる気がして。

展示された落合さんの夕焼けの写真

奥山:その話を聞いたとき、コンビニに並んでいる雑誌を思い出したんです。人の顔って近距離で見れば見るほどエモーショナルに感じる。当たり前ですが、至近距離であればあるほどにドキドキしますよね。雑誌の表紙って、読者から目を引く必要があって、つまり短い時間でパッと見かけても感情を揺さぶる必要があって、だからエモーショナルでなければならない。それでみんな、ある意味でエモさの競い合いみたいになって、寄りの顔ばっかりになるわけですね。でも、結局どれもエモ過ぎて全部一緒に見えるんです。夕日も同じですよね。だから感情を激しく揺さぶり過ぎるものって、最終的に1点に帰結してしまうと言うのか、似てくる傾向があるのかなって。

落合:よっぽど個性があれば違うかもしれないですけどね。僕は写真を1日350枚くらい撮るんですけど、そのなかで一番、夕日の写真が多いんです。でも振り返るとやっぱり夕日は夕日だなって思いますね。だいたいコントラストが強いか逆光で黒が多くなります。その感覚が気持ち良かったりするのですが。

スカイツリーの写真を見ていただければ分かるんですけど、僕の好きな夕日って、少し青っぽくて、赤が混じった黒いグラデーションが写る、夏に出てくるような夕日なんです。夏の夕日のジメッとした感じがたまらなく良い。

Photo by 落合陽一

落合:言語化はできなくても、気配で察するものってあるじゃないですか。例えば、猛暑のなかサラリーマンが満員電車で揉まれてたり、ビルに入った瞬間クーラーで涼んだり、夜の仕事終わりに赤提灯の下でビールを飲んでいたりする世界観が想像できる。その夏の暑さや気だるさと合わさった感じの夕焼けが好きなんです。

反対に冬の朝日は、クリスマスとか特別な日の朝に感じる、冷たいんだけど空気が澄んでパッキリしている感じ。写真1枚を見るだけで、情景が匂ってくるような世界観を撮りたいです。

奥山:写真から匂ってくる世界観って目で見たそのままの世界ではなくて、写真の細部や奥行き、記憶だったりするじゃないですか。ということは、結局人って目の前のものを視覚的に認識していると同時に、それ以外の情景を頭のどこかで思い描いているということですよね。

時間差から出てくる質量の揺れ

奥山:写真は目に映っている世界のトリミングじゃないですか。写っているものは現実世界に存在している実像に他ならないのですが、けれど人はいつだってフレームの外側を頭の片隅で捉えようとしている。人間ってそういう癖がある気がしています。何かを認識した瞬間に、その認識した対象の周辺やその認識物以外を捉えようとする仕組みなんだと思います。

例えば、いま落合さんは僕を見ているんですけど、「僕がどういう人なんだろう」「どういう生き方をしてきたんだろう」「どういう写真を撮るんだろう」みたいなところも見ようとしていませんか?

落合:そうですね。何枚か写真を並べると、写真に写っていないフレームの外の景色が見えたりしておもしろいです。

奥山:だから、1枚でその背景にある時代性や人の気持ちといった周辺の情報量を多く写した写真って濃厚で、それがエモーショナルな写真と言えるんじゃないでしょうか。

落合:ちなみに僕の後ろに貼ってある写真は、作業してくれた人にランダムで貼ってもらったんです。そうすると、写真を間違えて逆さまに貼っているようなおもしろいことが起きている。これは、意図的に並べたら成立しないんですよね。

奥山: 僕も普段写真集をつくるときはほとんど自分で構成をするのですが、最近出版した新しい写真集は、装丁から構成まで人に任せてみたんです。すると僕が撮ったはずの写真なのに、見え方が大きく変わって。映像だと尺があって単純に写真よりも情報量が多いから、仮に視聴の状況が変わったとしても、そこまで認識に大きな揺れはないのですが、写真は瞬間を切り取ったものなので、情報としての要素が少ないだけに、イメージに大きな変化がありますよね。

それから、フィルム写真は、撮ってから少し時間が経たないと撮影した写真を確認できないじゃないですか。撮ったときは景色を目前にしているから、その状況に対して何か思っている。ポジであれネガであれ熱量を持っている、ということです。だから撮影した瞬間と、1週間後に改めて写真を見返したときは自分の状態が違うし、心持ちも違う。つまり、高い熱量で撮っていたときから時間が経過して冷静な状態になると、写真に対しての捉え方が異なる。だから今回、落合さんが写真展を構成していくときにもそんな瞬間があったのではないでしょうか。

落合:時間差っておもしろいですよね。だから僕はどのくらい現像せずに封印するかを日によって変えたりしています。なかには全く仕上がりを意識していない写真もあって、そうすると意図せずに黒つぶれした感じが逆に良いと感じるときがあったりして。

奥山:撮影時にモニターを確認していないということは、露出調整はしていないということですか?

落合:していないですね。もちろん露出計の数値は見るけど、それが最終的にどういうふうな印象で写るかを確認できないので、想像を超えるものもあります。

 

時代の中央値から外れた “もの感”とは

落合:白黒はフィルムでもたまに撮るんですけど、中判カメラで撮影しているときよりも解像感を高く感じるときがあります。奥山さんはフィルムで撮影されてますよね?

奥山:はい。

落合:僕は、フィルムのじっとりした解像感ってすごいなって思います。

Photo by 落合陽一

奥山:“もの感”みたいなことですよね。その時代によって価値観が異なるから、なにが主流で標準かっていうことが影響すると思いますが、その、真ん中みたいな位置から逸れている表現ってありますよね。

落合:いまの主流は、「中判・パッキリ・ざっくり」のようなものですよね。

奥山:そうですね。だから、その中央線から外れているフィルムの独特な解像度の写真には、“もの感”を見いだしてしまうのかもしれません。

落合:例えば、撮った写真を加工しなかったり、露出計を確認しないで撮ってみたりといった、アナログならではの手法もそうですよね。

奥山:僕はもともと最初に愛用していたカメラがデジタル一眼レフだったこともあって、写真に興味を持ってからしばらく経って手にしたアナログのカメラには、シンプルに強い個性を感じました。

落合:最近はハリウッドセレブを連想させるような、綺麗な花やかわいい女の人がパッキリと写った写真が多いじゃないですか。あれはあれでみんなの文化だとも思っているんですけど。

奥山:でも、その文化で生まれた写真もいつの日か “もの感”が表層化してくる時代がやってきますよね。

落合:僕は小学校3年生からデジカメを使って写真を撮り始めましたが、メディアアート作家として10年間活動した後に写真を撮ってみると、そういった写真特有のメディア性というのは、メディアアート作家として持っていたい要素のひとつだなと改めて思いました。それが、今回の作品づくりにつながっています。

 

写真が表現する質量とは?

奥山:写真展のテーマにある「質量」という単語には、時間における質量と空間における質量があるかと思いますが、具体的にはどんな質量なんですか?

落合:空間的な質量で言うと煙が出ていたり、空気の重さを感じたり、解像感の高さとか匂いとかですね。一言で言うと、ピクセル上に書き表すことができないもので、波の写真を撮ったりとかレンズのリフレクションを撮ったりとか、あとガラスのくもりとかそういうものです。

Photo by 落合陽一

奥山:ピントのボケとかも含まれるんですか?

落合:そう。だから僕は、オートフォーカスは使わないんですよ。マニュアルフォーカスで撮影していて、たまに息子の動きが速過ぎてシャッターを押し損なうときがあるんですが、「フォーカススピードが間に合っていないな」って思う、あの瞬間を想起させる表現がおもしろくて。人間にできるフォーカスのスピードっていくら熟達しても限界がありますよね。でも、それが写真が持つ時間の質量で、そこに美しさを感じるんですよね。

Photo by 落合陽一

奥山:空間や時間の奥行きを読み取れる写真ほど、写っている実像以外の空間や時間を想像させてくれます。つまり実像以外の想像をかき立てる写真ほど、質量を感じるってことですよね。

落合:僕は奥山さんのポカリスエットのCMを見ても質量を感じます。ちゃんと汗を感じるっていうか。

奥山:確かに、一枚一枚、前後に何が起きていてどういう状況かというストーリー性に質量がありますね。

落合:こんなふうに思い出が脳裏に焼きついたら良い青春だったのにな、と思いました。記憶の回想性を表現するのがうまいなって。僕の場合、普段から感じる解像感が高いので、もっと高精細に水とか風を感じてしまって、頭のなかでなかなかボケてくれない。

奥山:僕はそういう意味では、記憶が鮮明ではないのかもしれないですね。

落合:でも、その鮮明感のなさが良いよね。

奥山:不思議なもので、写真にはそこにあった記憶や事実を歪めるような力があると思っていて。視覚情報としては紛れもなく残っているのに、けれど瞬間であるが故に、残っていない周辺情報は記憶や想像に頼りますよね。だから写真における記憶や事実は変形してく可能性が高くて、でもそれこそが、ときとして写真をエモーショナルにする要因のひとつなんだと思いますが。

落合:僕はエッセイを読むのが好きで、著者の視点を追体験して気持ち良くなる感覚があります。そういった意味では、写真も作家の視点を追体験するメディアとして捉えれば、それはそれで気持ちが良い。奥山さんの写真集には、そういったエッセイっぽさがあると僕は感じました。

奥山:最近、初めて人形浄瑠璃を見たんです。人形による時代劇で、言葉を選ばずに言ってしまうと少し退屈なのですが、なじみのお客さんらしき人たちからはたまに笑いが起こるんですよ。でも、この笑いって知識と歴史に裏付けされた笑いなんだな、と。つまり、時間的奥行きの質量があるんです。

落合:知識と歴史を知らないと笑えないものですか?

奥山:きっとそうですね。漫才のように笑いを取る前提の笑いではなく、笑わせるつもりなく生まれる、ほほ笑ましい笑み、といった具合です。前提を把握しているからこそおもしろい、みたいな。

落合:学会の話題とかもそんな感じですね。笑わせようとしてないけど笑えるやつでしょ? 「このくらいの文脈で結論言っちゃうんだ」というのを想起して出てくる笑いみたいな(笑)。

奥山:それってある種の質量ですよね。

落合:笑えるというのは共有できる情報があるからで、みんなが共有できない情報があったらその場合はどうなるんだろうとか考えますね。

奥山:そういう意味で人間は、基準値の変容が柔軟過ぎると思いませんか。日ごとに当たり前が変化している気がする。

例えば、グーグルマップがなかった時代、どうやって交通経路を調べていたんだっけ?とかふと思ってしまいませんか。過ぎ去っていく時代のなかで基準値を冷静に捉えて、その変容のなかでいかにくぼみだったり、山を絶妙な高低差でつくっていくのかが表現者には大事なんだと思います。

落合:時代性からどう切り離されていくかも重要なんだけどね。

奥山:北野武さんはお笑いをやられていて、その上で暴力シーンが多い映画も手掛けてらっしゃるじゃないですか。一見、真逆の表現に見えるんですけど、お笑いも暴力もロジックは一緒ですよね。一定の脈を刻む線の上にいかに山や谷を急激につくり出すか。その変化が大きければ大きいほど人はエモさを感じて感情を突き動かされてしまうんですよね。だからたまに、驚き過ぎて笑ってしまうときってあるじゃないですか。表裏一体と言いますか。

けれど、その傾斜に気付かないうちに山を登っていたということも多々あると思います。例えば最近では、スマホで当たり前になった縦画面の動画ですよね。テレビやパソコンだけで動画を見ていたときには、横画面以外の表現は考えられなかった。そういった、気付かぬうちに人の無意識に入り込んでくる革命があるんですよ。それに気付くことって、とても難しいですよね。

落合:いまの時代にポケベルを見るような感じだよね。ポケベルの液晶画面に「アイシテル」とか書いていたことを考えると、スマホ時代に至るまで、すごい上り坂を登ってきたわけじゃないですか。

奥山:やっぱり変化を求めてしまうのは、人間の癖みたいなものですよね。

 

平成が生んだ“タグ付け”の文化

奥山:人って、分からないと思う事象に対して分からないままにしておくのが苦手ですよね。だから“タグ付け”したがる。「これはこの引き出し」って収納しないと気がすまない。だから「これはどうタグ付けすればいいんだろう」っていうものを見つけると、みながいっせいに目を向ける。分からないから落ち着かなくて、知ろうとする。けれど、タグ付けされ切ってしまうと飽きてしまう。あ、ここで言う“タグ付け”っていうのはあくまで比喩ですよ。だからきっと、世の中で“人気”だよね、ってその人物事を中心として白熱を感じるときって、まさにタグ付けされている途中段階なんだと思うんです。

ただ、あまりに分からな過ぎるものは気付かれもしないから、タグ付けされるぐらいの分かりやすさはなくてはないらない。普遍性でしょうか。でも、ただの普遍過ぎてもすぐにタグ付けは完了してしまう。だから、人の注目を集め続ける人物事っていうのは、どこかに、過去に既出の要素でタグ付けができるぐらいの普遍性がありながらも、けれど、完了はしない、分からなさ、新しさをほんの一部はらんでいるものだと思うんです。だから、新しいと言われ注目されるものの多くが、8割型普遍の要素で構成されている。よく見知ったもので構成されている。けれど2、3割がいままでとは異なる。

落合:でも、時代性が変わると、いろんなことがクロスジャンル的になっていくから大変だなと思う部分もあります。例えば僕がやっているメディアアート、研究、大学の授業、会社の経営、本の執筆、SNS、テレビ出演を同時にこなすのは、コンピュータ時代じゃなかったらできなかったことで、過去に僕と同じような活動をしていた人っていない。そう考えると、僕は毎日新しいことをやりながら楽しく生きていけているかな。でも今後は、そうやって多数のキャリアを持つ人が増えていく。つまり、カテゴライズできない、タグ付けしきれない人たちが増えていくんだと思います。

奥山:過去に既に知られている要素だけで構成された場合は、結局は誰かの真似をしているようにしか見えない。だから自分自身が時代の空気を吸って、感じていることを独自性のひとつとして加えないと、明らかに分かりきったものになってしまいますよね。つまらないものに。

落合:そこであえていうなら「お客様のことを考えている」と言うのは駄目だと思います。今回の僕の写真集は、お客様のことをあんまり考えてつくっていないんですよね。お客様のことを考えたのは展示空間をつくるときくらい。アートをつくっているときとか、家に置きたいものをつくっているときって、お客様のことを考える必要はなくて、そのことを納得できる人たちと同じ目線で作品を見れたらそれで良いのかなと思います。

奥山さん、本日は“エモ”についていろいろとお話しできて本当に楽しかったです。貴重な時間をありがとうございました。

タジリ:落合さん、奥山さんありがとうございました。デジタルカメラが普及しているいまだからこそ、新しい質感を発見することのできたフィルムカメラがもたらす“エモーショナルな写真”や、次世代の写真に求められるクリエイティブについて理解を深めることができた有意義な時間なったのではないでしょうか。本日はありがとうございました。

Photographs by Kazuma Hata
Text by Kaito Yamamoto

2019/5/22

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