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REPORT

多様性を受け入れ、想いでつくられた銀座の街

「日本の感性」と「美意識」を発信するオンラインメディア「Premium Japan」がこのたびアマナに加わり、2019年5月にウェブサイトをリニューアルして新たなスタートを切りました。今回は「Premium Japan」のローンチを記念したトークイベントを開催。

 

テーマはメディアコンセプトと共鳴し、新しい文化や日本の気品溢れる美意識を発信し続ける街「銀座」です。150年の歴史を誇り、大手デベロッパーや大規模再開発を行う大企業が存在せずに独自の発展を遂げてきたその背景には、“銀座の街の人々”の姿がありました。彼らがいかに“ギンザイズム”を継承して “銀座らしさ”をつくっているのか。株式会社ギンザのサヱグサ5代目社長の三枝亮さんと、銀座通連合会・全銀座会事務局長の竹沢えり子さんをお迎えし、明治時代から連綿と続く銀座の街づくりについて、語っていただきました。


“人”がつくる街、銀座

タジリケイスケ(「H」編集長/以下、タジリ):今回のテーマは「日本の感性」と「美意識」が凝縮された街、銀座。5月にアマナグループに加入した「日本の感性」と「美意識」を発信するオンラインメディア「Premium Japan」のメディアローンチを記念したトークイベントとなっています。
株式会社ギンザのサヱグサ代表の三枝亮さんと、銀座通連合会・全銀座会事務局長の竹沢えり子さんにお越しいただき、株式会社プレミアムジャパン代表取締役の島村美緒が進行を務めさせていただきます。

銀座にはハイブランドや百貨店が立ち並び、買い物に行かれる方も多いかと思います。しかし、銀座の歴史やどのような人たちが街をつくっているのかは知らない方も多いのではないでしょうか。今回は、そんな知られざる銀座のストーリーや裏話をお伺いし、「銀座の文化はいかにしてつくられてきたのか」を紐解いていきたいと思います。それではさっそく、お三方にご登壇いただきましょう。

島村美緒(以下、島村):みなさんこんばんは。プレミアムジャパンの島村です。「Premium Japan」は、日本のプレミアムな情報を発信するオンラインメディアとして2015年に創刊され、私が代表を務める株式会社ルッソが2017年に事業権を獲得し運営を開始いたしました。2019年にはアマナと業務提携を結び、『日経Priv.』元編集長の藤野淑恵を編集長に迎え、編集体制も新たにクオリティの高いメディアを目指して参ります。

島村:私自身は、もともとウォルト・ディズニーなど外資系企業に長く勤めており、銀座の皆さまとはハリー・ウィンストン時代、銀座に出店する国際ブランドの会(Ginza International Luxury Committee=GILC)で5年間幹事を務めさせていただいた際に、関係ができました。そこで私がユニークだと感じたのは、銀座の街は大手デベロッパーが全く入っておらず、商店会や町会などが運営をしている点です。今回はその辺りのお話も伺いたいと思い、三枝さん、竹沢さんにお越しくださいました。

(左から)銀座通連合会・全銀座会事務局長の竹沢えり子さん、株式会社ギンザのサヱグサ代表の三枝亮さん、株式会社プレミアムジャパン代表取締役の島村美緒

三枝 亮(以下、三枝):私は銀座の一角をなす小さな商店の親父なのですが、銀座の人と人のつながり、人々がどうやって銀座を守っているかお伝えしていきたいと思います。

竹沢えり子(以下、竹沢):私は、銀座にたくさんある商店会や町会などの集まりである「全銀座会」の事務局長を務めさせていただいており、街のさまざまな課題に対応したり、街の運営実務を担っています。よろしくお願いします。

 

銀座煉瓦街から始まり、多くの“日本初”を生んだ街

タジリ: ひとつ目のテーマは「銀座はこうしてつくられた」です。銀座の街はどのようにしていまの形になったのか、街の歴史についてお話いただきます。

竹沢:「銀座」という街の名前は、徳川家康が駿河の国(静岡県)にあった銀貨鋳造所をこの街に移したことに由来します。当時、江戸の中心は日本橋で銀座はそれほど華やかな街ではありませんでした。ところが、明治5年。銀座大火が起こったことで銀座の街は一面全て焼けてしまったんです。明治政府は火事の後、たった3日で「ここを全部、煉瓦街にしよう」と決め、1週間後には正式決定。国家予算の27分の1という莫大な金額がかけられました。

竹沢:煉瓦街の設計を担当したのはアイルランド人の土木設計者、トーマス・ジェームズ・ウォートルス。明治初期に活躍したお雇い外国人(編注:日本の近代化に必要な西欧の先進技術や知識をもたらした、政府などによって雇用された外国人のこと)でした。ウォートルスは、日本人が見たこともないびっくりするような煉瓦の街をつくり上げ、それが銀座発展の第一歩となりました。

そのため銀座には、“日本初”のお店や物が多くあります。三枝さんのお店もそれまで日本で売っていなかった西洋の商品を扱っておられましたが、当時薬局だった資生堂が日本で初めて飲料を提供する装置であるソーダファウンテンを開設したり、木村屋總本店はパンという洋物の食べ物とあんこを組み合わせた、あんぱんを生み出しました。明治の間に新しいことが次々と起こっていったんです。

 

多くの老舗は銀座から。新聞社が集まり、情報の発信源に

竹沢:こうして日本で見たこともない事物を扱っていったことで、文化人や流行に敏感な人たち、新しいものを売る商人が集まり銀座は繁栄してきました。しかし、1923年の関東大震災で壊滅してしまいます。揺れによる崩壊ではなくその後の火事で焼けてしまったのです。もともと煉瓦街というのは「火事で焼けない街をつくろう」と不燃の街を目指してつくられましたが、火事で全て焼けてしまったというのはとても皮肉なことでした。

資料提供:ギンザのサヱグサ文化事業室

しかし、銀座の街はそこからまた復興し始めます。関東大震災の後はデパートができていきました。松坂屋(現・GINZA SIX)、三越、松屋などですね。昭和初期の建物が残っているのは、和光とその並びの教文館、松屋などです。

資料提供:ギンザのサヱグサ文化事業室

こちらは現在の銀座の様子ですが、変わらず和光さんの時計塔があります。この和光の建物がひとつの銀座の象徴となっていて、多くの方に銀座をイメージしていただけていると思います。

23の町会と、18の通り会

島村:ちなみに銀座には、どれくらいの数のお店があるのでしょう?

竹沢:実は数が多すぎて誰も分からないんです。以前、店舗名簿を作成しようと試みたことがあるのですが入れ替わりが激しく、データをつくっても翌年後には半数くらいが入れ替わってしまっていたんです。それ以来、名簿作成はやめようということに。

ただ、銀座の町会単位の細分化は行われています。「一体どこからどこまでが銀座なの?」ということが分かるように、今日はみなさんに町会番号図をお配りしました。1番が銀座西1丁目町会、2番が銀座西2丁目町会……というように全部で23の町会があるんです。

元々は5〜8番が「銀座」と呼ばれ、他のところは木挽町や、尾張町、竹川町、出雲町などと呼ばれていました。それら全部が「銀座」という町名になったのは昭和30年代、戦後のこと。次の図にあるように、町会とは別に18の「通り会」があります。

島村:複数の会に所属していらっしゃる店舗もいらっしゃるんですよね。

竹沢:もちろんです。角にあるお店、例えばサヱグサさんの場合は松屋通り会、銀座通連合会、3丁目町会、ガス灯通り会と4つの会に入っています。2001年からは、町会、通り会、業界団体等をまとめる「全銀座会」ができました。その下にいろいろな委員会があって、街の人たちがボランティアで活動しています。地域全体で会同士が集まって街の意思決定機関として機能しているのは、全国的にも非常に珍しいと思います。

島村:ひとつの会にはどれくらいの会員さんがいらっしゃるのでしょうか。

竹沢:例えば、銀座料理飲食業組合連合会だけでも何百と会員さんがいますし、相当な数としか言えないです。

 

銀座の魅力や“らしさ”を守るために

島村:街の皆さんが主導となって銀座を運営しているということですが、具体的にどのように行っているのでしょうか。

竹沢:会の代表が毎月一堂に会して、情報交換や決め事を行っています。また、全銀座会の銀座街づくり委員会の下部組織として「銀座街づくり会議」というものがございます。

さまざまな街の課題、交通課題、地区計画、行政とのやり取りなどをしております。同会ができたきっかけは、松坂屋の跡地となったGINZA SIXの開発でした。いままでで最大級の開発ですから、どうすれば銀座らしいビルに開発していただけるかを話し合う会としてできました。

島村:銀座街づくり会議のメンバーも銀座の街の方々がやっているんですよね。

竹沢:そうですね。専門家の方も入っていますが、基本的には街の方々だけです。加えて、銀座の景観を審議する会として「デザイン協議会」もやらせていただいております。銀座で新しい建物を建てる際は、必ず街の意見を聞かないと中央区は合意・指導しないし、法的手続きにも進めない仕組みを区が制定してくださいました。

現在は年間300件くらいの相談を受け、GINZA SIXのような大規模な建物から、店舗の袖看板のような小規模なものまでお話を聞いています。

具体的にどんな話をしているのかというと、通常でしたら景観が乱れないように看板などの明度と彩度などを指定しますが、私たちは言葉や数値で決めるのをやめました。基準は「銀座らしいかどうか」だけです。そのため一件ずつお話を聞いて、銀座らしいオリジナリティやクリエイティビティを提案しているかどうか、銀座の街に溶け込めるかなどで判断しています。

タジリ:細かく決めたほうが統一感も出ていいと思われますが、決めなかったのはなぜでしょう?

竹沢:なぜなら「これがダメ」というのを決めてしまうと、クリエイターの人たちが新しい発想や提案をできなくなるからです。私たちとしてはクリエイターの人たちに「これが銀座だよね」と提案していただいて、そこをちゃんと議論したいと思っています。

三枝:私もデザイン協議会委員のひとりです。あるとき、数寄屋橋交差点の近くにマツモトキヨシさんが出店されるというお話がありました。ただ、みなさんが思いつくあのカラーのままでは残念ながら、銀座の街には馴染まない。そこでデザイン変更の可能性を打診したんです。すると先方も寛大に受けとってくださり、街なじみの良い色をお考えいただいた。つまり、条例のように厳しく制限するのではなく、銀座がどうあるべきか、共に街をつくっていく仲間としてご理解いただけたというわけです。

ルールを決めたほうが楽なんですが、私たちはいつの時代も「銀座に出たい」と思ってもらえるような街づくりを目指しています。ルールを明文化してしまうと時代にそぐわなかったり、その魅力を失ってしまう恐れがある。ですから、一件一件丁寧にデザイン協議会で議論をする、というやり方なんです。

 

強烈な横の繋がりで培われる“ギンザイズム”

タジリ:ここまでは歴史や組織・街の仕組みについてお話をしていただきましたが、ここからは「銀座の街をつくる人たち」というテーマで、より具体的にどのような人たちが街をつくっているのか、お話いただきたいと思います。

三枝:いくつかユニークな業界団体がありますのでご紹介していきます。例えば「GSK銀座社交料飲協会」は非常に珍しい組織で、バーやクラブの方たちの団体です。銀座は夜の顔もありますから、銀座の街づくりにも大変貢献をしていただいています。

「銀座百店会」は私が最年少理事を務める会ですが、外資系企業や百貨店は入れず、128社の商店が加入しています。銀座百店会は、おそらく日本で一番古いタウン誌『銀座百点』を月一で発行しており、みんなでお金を出し合ってつくっています。

「銀実会」という銀座の若旦那が集まる青年会もあります。商店組織というと、重鎮の一言で決まるようなイメージがあるかと思いますが、銀座は「若い者に任せよう」という意識が昔からあります。そこで銀実会が活躍するんです。例えば、東京マラソンでは警備員として警備にあたったり、銀座の将来を考える企画に参加したりもします。

竹沢:東京マラソンのときは道路を渡れないので自転車を地下の連絡通路に持っていって運ぶわけですが、皆さんの自転車を持って運んでいるのがよもや銀座の有名老舗店の若旦那とは思わないですよね(笑)。皆さんボランティアで、汗水垂らして運んでいます。

三枝:僕も10年ぐらい前に銀実会の理事長をやりましたが、完全にボランティア活動なので一銭も出ないんです。対価がないなかで20〜30代の若手には休日に動いてもらわないといけない。なので、理事長のときはメンバーを毎晩のように飲みに連れていって士気を高めていきました。銀座では先輩が支払うという慣習がいまだに残っているので、この1年は破産する思いでした(笑)。しかしそこで「今度のイベント頼むよ」と結束を高めるのです。

ここでのコミュニケーションは、銀座の街をつくるにあたって非常に重要です。銀座にはデベロッパーがいませんから、自分のビルのテナントは条件次第でどんな人でも引っ張ってこられる。一方、この強烈な横のネットワークがあることで、お金だけに走ってテナントを決めると大変な目に遭うという怖い面もある。銀実会を通して「銀座とは」を考えさせられるので、自然と見えない“銀座フィルター”が身に付きます。銀座文化のための選択ができるようになるので、“ギンザイズム”を身体に染み込ませる大変重要な場となっています。

竹沢:家業を継いでいる人も多いので、お父さんと一緒に仕事をすることになりますが、自分のお父さんの言うことはなかなか聞きたくない(笑)。ところが、人のお父さんの言うことは良く聞くので、町会の人たちは親戚のおじさんのように叱ってくださる関係なんだそうです。

 

外からは見えない銀座の “裏側”

タジリ:会場のみなさん、次の写真はどこだと思いますか? 鹿威しや庭園のようなものがありますね。

実は銀座のアップルストアの屋上なんです。ここはサヱグサさんが所有するビルで、最上階にはサヱグサさんのオフィスがあって、立派な庭園が設えてあるんです。

三枝:昭和42年に竣工したビルです。この庭は3代目にあたる私の祖父がつくったもので、それからずっと手入れをしています。当時、ここもそうですが銀座の目抜き通りの多くは金融機関が占めていました。しかし、商業地なのに15時にシャッターが閉まってしまい、顧客導線が途切れてしまうという問題がありました。そんなとき、ラグジュアリーブランドを中心としたさまざまな商店が出店攻勢をかけた時期で次々に入れ替わっていきました。そんななか、唯一IT業界から来てくれたのがアップルさんだったというわけです。

タジリ:他に街にまつわるお話はありますか?

三枝:銀座通りには車道と歩道のあいだにガードレールがないということに気づいていましたか? 通常は安全面から「ガードレールをつけなさい」という行政指導が入ります。しかし、銀座通りは先人の方たちが意図的に「ガードレールを置かないストリート」として銀座としての美観を守ってきました。銀座は日本で初めて歩行者天国を行なった街であるという誇りもあります。そういった銀座の“見えない取り組み”というのもこれから大切にしていきたいと思っています。

 

意識の高い“銀座人”が育む、手づくりのイベント

島村:銀座で行われるさまざまなイベント企画も、基本的には銀実会をはじめとした街の人々の手によってでき上がっているのですよね。

竹沢:そうですね。デベロッパーや広告代理店にお任せというわけではありません。警備や制作は業者に発注する部分もありますが、企画は基本的には街が主体です。

島村:私が過去に幹事を務めていた、国際ブランドが加盟する「GILC」もこれまでに歌舞伎座で「ギンザ・インターナショナル・ジャズ・フェスティバル」などを開催しています。国も、ブランドも、外資のグループも超えてまとまり、ひとつのエリアのために活動することは、パリやミラノでもあり得ないと聞いています。銀座だからこそ、実現されている会ですね。

竹沢:GILCは今年から始まった企画として、「ギンザ・ショートフィルム・コンテスト」を開催しました。5分間のショートフィルムで、最初は100作品集まれば良いなと思っていましたが、最終的には数百もの作品が届き、初開催ながら大きな成功を収めました。

三枝:銀実会が主催する「ゆかたで銀ぶら」も、おかげさまで12年目を迎え、大変大きなイベントに成長しました。イベントの企画を立ち上げた際には、企画書に「銀座4丁目交差点で和光を背景に、盆踊りを踊る格好良いシーンを世界中に発信しよう」と書かれていました。道路使用許可の問題でなかなか実現していませんが、2017年には泰明小学校の校庭で盆踊りが実現したんです。いつか銀座4丁目の交差点のど真ん中で、格好良い盆踊りをやりたいという希望はいまでもあります。

タジリ:こういった企画はデベロッパーや広告代理店が提案してくることが多いと思いますが、そういった方たちは基本的に入らないということですか?

竹沢:銀座は他の街と違って大きなデベロッパーさんが牽引して大きなイベントを行ったり、まとめて情報を発信する力がありません。そこが銀座の弱いところだとも言えます。そのため、基本的にイベントは手づくり、町会の人たちのボランティアで成り立っています。

三枝:手づくりがゆえに、予算ひとつ決めるにしても大変なことなのです。何か新しいことをクオリティ高くやっていこうとすると、非常にエネルギーを必要とする。良さと悪さと両面あると思います。しかし、銀座を構成している一人ひとりが街への高い意識を持っているため、銀座は銀座らしさを自らつくっていくんです。難しいこともありますが、その条件を逆手に取るしかないと思っています。

 

「銀座らしさ」とは何か? 10年後の銀座をつくるために

島村:いろいろなお話を伺いながら、守るべきところは守りつつ、強制ではなく話し合いや議論によって意思決定をする銀座の街の様子が見えてきました。銀座の街の人と外の人、どちらにとっても気持ち良い街だと思います。

最後のテーマですが、「銀座の何を守り、何を変えるのか」について、まずは三枝さんからお伺いしたいと思います。

三枝:個人的な意見ですが、一言で言うならば「多様性のあり続ける街」であることが重要と考えています。銀座には、昼の顔、夜の顔、男性が楽しむ場所、女性が楽しむ場所がそれぞれある。銀座通りにはプレミアムブランドが並ぶ一方、路地裏がしっかり残っています。雑誌で取り上げられるようなお店のランチは3万円するところもありますが、路地裏には500円のランチもちゃんとある。そういうハイエンドと庶民派の対比がカオスのように隣り合って存在しているのが、銀座の街だと感じています。

いまどきの銀ブラをしていただくと分かるのですが、角を曲がるたびに違う銀座が見えてくるはずです。お金を使わなくても、それぞれの“マイ銀座”として、楽しんでいただけるのではないでしょうか。こういう街は、ゼロから誰かが設計してできるのかというとそうではない。構成する一人ひとりがつくり上げる街であり続ければ、10年後の銀座もおもしろくいられると思っています。

竹沢:おっしゃる通りですね。私は銀座の歴史を勉強してきたのですが、銀座は変化し続けている街です。銀座らしさって本当に多様な局面を持っていて、これぞ銀座と一言で表現することは、なかなか難しい。これも銀座、あれも銀座なのです。街の奥行きや層の深さを知り、多様性のなかにはまり込んで抜けられなくなる、というのが銀座の魅力なのではないでしょうか。

私が一番大事だと思うのは「銀座らしさとは何か」を常に街の人が語り合っていること、それを続けていくことです。そして、街の人たち自身が自分たちなりの「銀座らしさ」を発信し続けること。

これまでは日本全国の憧れの街でしたが、今後は世界に発信していく時期だとも思っています。世界の人たちが「いつかは銀座に行きたい」「また銀座に行きたい」と思う街になるように、いつも「銀座らしさとは何か」を話し合っていけば、10年後も銀座らしい街であり続けるし、それが世界に広がっていくと思います。

島村:今回は、銀座の街の変化のなかには人間臭さが残っていること、いろいろな変化に対して街の人がどのように対応してきたかなどを知っていただいたかと思います。銀座の街の魅力を感じていただけたのではないでしょうか。三枝さん、竹沢さん、ありがとうございました。

Photographs by Kim Sungjin
Text by Yuka Sato

2019/8/6

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